• 被災当事者が表現する、生きづらさとの葛藤。そして決意。

東日本大震災の発生から4年と2ヶ月あまり。震災の記憶の風化が問題視される一方で、被災地に関する報道は少なくなり、被災当事者がどのような生活を送り、どのような気持ちを抱えて生きているのかを知る機会も少なくなっているように感じます。そんな中、岩手県釜石市で、地元の有志の若者らによって、小さな劇団が立ち上がりました。今年の3月29日には、立ち上げ公演、二人芝居『平行螺旋―へいこうスパイラル―』を上演。震災以来、仮設住宅での暮らしを余儀なくされた、とある姉妹の心の葛藤を描く本作を、実際の仮設住宅で上演するというユニークな試みを行いました。今回は、劇団の発起人の一人でもあり、本作の主演も務める菅野結花さんにお話を伺いました。

菅野結花さん

菅野 結花 (かんの ゆうか)
1990年生まれ、岩手県陸前高田市出身。
山梨県立大学卒業。2011年の東日本大震災で実家が被災。地元陸前高田市を舞台に、ドキュメンタリー映画『きょうを守る』を制作。現在は報道機関で働く傍ら、知人らと地域劇団、劇団もしょこむを立ち上げ、活動中。

━まずは、劇団を立ち上げた経緯について教えて下さい。

私は中学校3年生の時から地元や大学でずっと演劇をやっていました。釜石には市民劇場という、市の予算とかがついて毎年市民から広く公募してやる劇場があるんですけれども、それに去年初めて参加したんです。そこで『平行螺旋』の相手役の小笠原景子さんと知り合って、その打ち上げの場で、何か小さいお芝居やりたいねって盛り上がったことが、立ち上げのきっかけですね。

ちょうどそのとき、今回脚本を書いて下さったこむろこうじ先生が市民劇場の公演の原作者としていらっしゃっていて、僕が脚本を書くよということになりました。私は岩手県陸前高田市の出身なんですけれども、地元の同い年の女の子とか何やっているの? とその打ち上げの場で先生に質問されて。地元に戻るとしても市役所(職員)とかコンビニのバイトとかですかね、っていう感じの取材を5分、10分くらいして。突然、スイッチが入ったって言って、こむろ先生は途中で脚本を書きに帰ってしまいました(笑)。元々、こむろ先生が被災地に強い想いを寄せていらっしゃったので、『平行螺旋』でこういったテーマを扱うことになりました。

『平行螺旋―へいこうスパイラル―』のワンシーン。(左)菅野結花さん (右)小笠原景子さん『平行螺旋―へいこうスパイラル―』のワンシーン。
(左)菅野結花さん (右)小笠原景子さん

━『平行螺旋』は、仮設住宅で共に暮らす姉妹の、震災以後の4年間の日常を描いた作品ですけれども、立ち上げ公演は、実際に現在も使われている平田第6仮設団地にて上演されましたよね。なぜ、立ち上げ公演にここの場所を選んだのでしょうか?

お金をとる公演をやろうとすると、場所を貸してくれる所が無くて、出来たとしても場所代だけですごく高くなってしまうし、結構困っていて。ここの場所貸してくれませんかって飛び込みで何箇所か廻って、良いよと言ってくれたのがたまたまあそこ(平田第6仮設団地)だったんです。偶然の産物といったら変なんですけど、結果的に仮設住宅で仮設住宅の話を出来るという、本当にこれ以上に良い場所は無いんじゃないかなという所でやらせてもらえる事になりました。特に、外から来たひとは、仮設住宅というものがあると知っていても、本当にここにひとが住んでいるんだって、実感する機会って無いと思います。演劇を観に来てもらうことで、被災地の情報発信にもなったのかなと感じています。

私の実家は陸前高田市の高田町というところで、あと100m遠かったら被災していないかなみたいな、結構ぎりぎりの、山の入り口みたいなところに住んでいたんですが、家は流されてしまって、両親は今でも仮設で生活しています。今回、たまたまあの会場を貸してもらえて、来て下さった地元のひとも、泣きながら観てくれたりして、やっぱり、当事者の中でどこか共感する部分があったんだろうなと思っています。ボランティアのひとたちも来ていて、みんなそれぞれの立場で見ていましたね。当事者の私たちはただ伝える事しか出来ないけど、受け取り方は、今回来てくれた130人、それぞれに130通りあっただろうから、いろんな所からひとが来てくれたという意味でもいい舞台になったのかなと思います。

立ち上げ公演が行われた平田第六仮設団地立ち上げ公演が行われた平田第六仮設団地

━菅野さんは今回の劇団立ち上げ以前にも、ドキュメンタリー映画の監督もしていらっしゃいます。それは、震災から1年以内に撮影された作品という事ですけれども、当時の事を少しお話頂けますか?

当時はまだ大学生で、山梨県内の大学に通っていました。震災のときも山梨にいて、震災後、最初に高田に帰れたのが2週間後くらいでした。その後1週間ぐらい避難所の厨房を手伝いながら、一緒に避難所で暮らしていたんですけれども、自分は山梨での生活があったので、1週間弱しかいられなくて。何かしたいけど何も出来ないという、もどかしさとか自分の無力感とかをすごく感じて、悶々とした感情のまま過ごしていて。自分だけのうのうと生きているのが辛くて、家族は今も避難所にいるのになとか、ちゃんと毛布とかあるのかなとか、何をやっていても気になっていました。

ただ、高田に帰った時にいっぱい写真を撮っていて。その写真をインターネットのSNSで共有しようと思って投稿しました。地元の知り合い以外にも山梨の友人も見ていてくれて、そのうちの仲のいいひとりが言ってくれたんです。「写真観たよ、気を悪くしたら申し訳ないんだけれども、全部同じに見えちゃうね」って。それは別にその子の想像力が足りないという訳じゃなくて、それが普通のひとの反応というか、そこの出身じゃないひとにとっては、それが当たり前なんだなっていうのを改めて知らせてもらったんです。いくら私の家とか私の地元、学校、公民館とか書いていても全部同じに見えちゃう。同じに見えないようにするにはどうしたら良いんだろうというのをずっと考えていました。そんな時に、震災前からボランティアスタッフとして携わっていた、やまなし映画祭の顔合わせ会議があって、もしかしたら写真じゃなくて映像だったら何か残せるんじゃないかと思ったんです。ちょうど大学の教授の繋がりで崔洋一監督が来ていて、実は高田の出身でどうにか映像に残したいんですって相談したら、それは君の手で撮るべきだとおっしゃって頂いて、それから映画制作をスタートさせました。

ドキュメンタリー映画『きょうを守る』本編より

ドキュメンタリー映画『きょうを守る』
[ 2011年/70分/カラー/監督・撮影・編集・ナレーション:菅野結花 ]
2011年3月11日に発生した東日本大震災。津波で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市の出身である本作監督が、避難所や仮説住宅、母校などを訪れ、友人や家族へのインタビューを実施。被災当事者の目線で“被災地”の日常と本音を紡ぎ出すドキュメンタリー。

━映画を通して、これが伝えたい。というものはあったのでしょうか?

まず記録を撮りたかったのが一番でした。何が伝えたいんですかということはマスコミの方にもよく聞かれたんですけれども、伝えたいというよりも残したいというのが一番でした。最初は3月の終わりに高田に帰って。次は5月の頭に帰って。次は7月…というふうに、時が経つにつれて街の様子が変わっていくのを見て、「あ、残らないんだな。」と思いました。何か残したいなというのが強くて。聞くこととか構成とかは何も考えずに、あるままを残そうと思って、地元のみんなの話を聞いて、そのまままとめたという感じになりました。当時は未だ学生だったので、うまく作ろうと思っても作れないし。だったらもう個人的なものに特化しようと思って。だからもう個人的な世間話集ですよね(笑)。

もともと自分の記憶の中に、コンプレックスみたいなものがあって。どんどん忘れていっちゃうタイプなんです。覚えていたいことでも忘れていっちゃうという。それが、すごく嫌だった時があって、そういうのがどこかにあったのかなと思います。

━『平行螺旋』で菅野さんが演じているヒロミは、様々な悩みを抱えながらも、最終的には「私は震災の事を忘れない。」という決断をします。今話を聞くと、とてもダブるところがありますけれども。そういう話は、脚本の先生ともされていたのでしょうか?

してないんです。全然。今回の公演では、個人的にはそういう部分とかもダブらせながら演じていました。

ただ、「忘れない」「忘れよう」どっちの生き方でも良いんだよというのは、あると思います。地元のひとたちと話をしていても、「忘れる派」と「忘れない派」といるので、どっちも間違いじゃないというのは、今回の公演で伝わっていたら良かったのかなと思います。共感してくれる方も居ましたしね。中には、「自分自身も母を亡くして思い出したくない。今でも思い出したくない。忘れようというのに癒された。」というひともいて。でも私は忘れたくないっていう派だし、いろんな生き方があってそれで良いんだよって。今回は、そういう舞台なのかなっていう感じでしたね。

━今回の演劇はドキュメンタリーとは違って、フィクション。作り話じゃないですか。でも、だからこそ、伝えられるものがあるのかなとも思いました。

それはそうだと思います。ニセモノなんですよね、演劇って大前提として。でも、だからこそいろんなひとが共感出来る。誰にも優しいというか、そういうものだと思うので。もちろん自分を投影して観るひともいると思いますけれども、終わってしまえば、これは嘘の物語だから、どんな汚い感情も、汚い言葉も、泣いたって、怒ったって、舞台は全部許してくれるので。そういう演劇の持っている力ってあるよなって思ったりして。そういう演劇の良さを釜石でももっと知ってもらえたらいいなと思いますね。

『平行螺旋―へいこうスパイラル―』立ち上げ公演での上演風景『平行螺旋―へいこうスパイラル―』立ち上げ公演での上演風景

━『平行螺旋』のラストシーンに、「人が生まれ 人が生きるということには 何の理由も無いけれど 生きる価値は 後からつけたされたものだけれど」という台詞があります。今回の公演で描かれている、被災当事者が抱える生きづらさとの葛藤を端的に表現した、素晴らしい台詞だと感じました。

台詞自体を書いたのはこむろ先生なんですけれども、自分自身も共感するところはあります。結局、生きる意味を求めるのって人間だけだと思うので、意味無いよって言えばそりゃ意味無いよみたいな。実際に、知っている人の中には、被災地での生活を送る中で自殺してしまった人もいるんですよね。でもそのひとを私は否定出来ない。死んだ方が楽かもしれないし。

私は結構、いろんな友達や仲間、上司とか先生、恩師にも恵まれて、その先生の中には、60代とかになっても、こんな世界に生きる意味があるのか分からないって、ざっくばらんに、泣きながら言ってくれるような先生もいて、その言葉をすごく覚えています。どんなに生きていても生きる意味なんてわからないんだよな、って思っていて、別に無理に見つけなくてもいいのかな、って思いますね。個人的には。

━あの劇の中で描かれているのは、自分と向き合う事で最終的に選択して生きていくという事だと思います。ヒロミは何があったからこそ、自分と向き合う事が出来たのでしょうか?

私の考えですけれども、“他人”の存在がすごく大きいですよね。本当にひどい言い方をすれば所詮他人なんですけれども。でもやっぱり他のひとがいてこそ自分がこういう人間だって自覚が出来て、いろんなひとに支えられて生きているっていうのがわかって。

特に私自身の場合、震災の直前って、大学に入って、2年生にもなって、一人暮らしもある程度出来るようになって、意外と普通に暮らせるんだな、みたいな。人生なめてる訳じゃないけど、まあ、このまま普通にどこかに就職して、もしかしたら誰かと結婚して、普通の人生を送るんだろうなみたいな、そういう変な安定の仕方があったんですけれども、揺さぶられて。

あ、本当に私ひとりじゃ生きていけないんだなって感じて。その時もすごく色々なひとが支えてくれて。その中で、自分の輪郭っていうんですかね、やっぱり自分ひとりじゃだめなんだなって。他人との関係、繋がりがあってこそだと。何の損得勘定もなく付き合ってくれる友人、恩師、先輩後輩が沢山いて、私、菅野結花っていう人間なんだなみたいな。だからやっぱり他人が大きかったのかなと今でもそう思いますね。

━それは、ヒロミにとっては、お姉ちゃんだったり。

そうですね。ヒロミにとってはお姉ちゃんだと思います。仲間もいたけどみんな離れていっちゃって。多分、その土地で頼れるのはお姉ちゃんしかいなかった。ヒロミにとっては、お姉ちゃんが嬉しいと自分も嬉しい。お姉ちゃんが悲しいと私も悲しいみたいな。本当に鏡みたいな。彼女があってこそのヒロミだったので。

私自身は、ヒロミ役としては、お姉ちゃんへのありがとうが一番大事だったので、劇の最後にそれを言えてよかったなと思うし、それはやっぱり、自分の周りの日常への感謝でもあったので。演劇に限らず、自分の生活も、他のいろんなひとの生活も、やっぱり他者との関係。多くなくてもいいんですよね。本当にたった一人、何も持っていなくても、ヒロミなり菅野結花なり、その個人を見てくれる。ひとがいれば、生きていけるのかなという気がしますね。個人的には。

公演終了後、スタッフと来場者で記念撮影公演終了後、スタッフと来場者で記念撮影

━今年の3月で震災から4年経ちました。心境の変化だったりがあると思うのですけれども。今、どのような事を感じていますか?また、これからどうしていきたいというのがあれば教えて下さい。

語弊があるかもしれないですけれども、被災地でも風化はしてきていると思います。当時の感謝の気持ちとか、あの、ヒリヒリした、ヤバいっていう、なんとかしなきゃいけない、この大変な状況を他の所に伝えていかなきゃいけないっていう。本当に、2011年4月とかのテンションのまま保っているひとって、多分いないと思います。私自身も、日々の仕事に追われていたりするとそうですけど、どんどん薄れていくものだと思うので、まずはそれを自覚しなきゃいけないとは感じますね。でも、風化自体を私は責める事はないというか。忘れていくことはしょうがない。人間そう出来ているので。それを責めたって建設的じゃないし。

ただ、前々から考えていることでもあるんですけれど、被災地以外のひとでも、本当に全くすっかり忘れているひとも、多分いないと思うんです。そう信じている部分があって。結局、友達とかでも、触れるのが怖いみたいなひともいると思うので、どこまで言っていいんだろうとか、どこまで自分なんかが関わっていいんだろうとか、結局自分にはわからないしな、で止まっているひとも多分、沢山いる。そこで止まっているひとも、本当の心の底の底には、何か出来るならしたいっていうのがあるからそういう気持ちが生まれるんだろうなって、信じているので。4年経っても5年経っても、何年経っても、もしきっかけが作れるのなら作りたいですね。

今回の公演では、まず沢山のひとに来てもらえたことが嬉しかったです。神奈川から来てくれた友達もいたし、盛岡から岩手県知事も来てくれたし。結局、被災地に限らずだと思うんですけれども、何かやっているよと言えば、みんな来てくれるきっかけになる。それをしないと、なかなか何の理由も無しに来てくれるひとって、少ないと思うんですよね。でも、今日これやるから見に来てねって言えば、じゃあいくかって。演劇も、今回来てもらうきっかけにはなったんですけれども、それ以外の思い出してもらうきっかけづくり。それが出来るのは多分、こっちにいるひととか。こっちに想いを寄せて活動しているひと。そういうひとたちと、ちょっとだけでも思い出すきっかけを作れたらなって、自分自身も思いますし、ちょっとでも触れてもらえればいいのかなと思います。

この記事は、「なんか生きづらい」ひとの「なかなか知らない」リアルを切り取ったwebマガジン『Plus-handicap』へ掲載した記事を転載したものです。
https://plus-handicap.com/2015/06/5906/