2018年4月19日 公開
デザイナーはすべからく差別者なんじゃないだろうか。例えばこの文章、文字サイズは16pxに設定されている。このウェブサイトは僕がデザインしたものだから、つまり僕が16pxが一番見やすい、読みやすいと判断したからこうなっているということだ。それでも、この文章を読んでいるひとの中には、文字か小さくて見えづらいというひともいると思う。その気持ちは痛いほどよく分かる。僕は視覚障害者だ。世の中にある小さな文字の大半は見えづらいと言って過言ではない。見えづらいひとたちのことを想定すればもっと字を大きくしたほうがいいのかもしれない。
デザインという行為は、僕の言語感覚で表現すれば差別に相当する行為であり、属人的、ひいては独善的と言われてもおかしくないような行いだと思う。一方で、でもそれは非難されるべきようなことではないというふうにも思っている。
僕がこの文章に16pxを指定しているのだって、「自分は障害と関係ないと思っているひとにも伝えたい」という目的や、「手持ちのデバイスの拡大機能を使ったほうが見やすい」という個人的な経験などいろいろな考えが複合的に絡まってそうなっている訳で、それは僕の属人的な判断基準に基づくものだ。でもそれが結果的に、特定のひとにとって使いづらいものが生み出されているということは事実で、それはもしかしたら「しょうがない」の一言で済ませられるようなことなのかもしれない。けれど、デザイナーはそれに対して自覚的があるべきだと僕は思っている。
差別に相当する行為という表し方をすると気に障るひともいるだろうが、でも、それはこの社会で当然のように行われている選択行為の一例に過ぎないんじゃないだろうか。とくにビジネスの場面においては、目的、ビジョンのようなものがあり、それを実現するための手段があって、その効果を最大化するためにターゲティングがなされる。そのなかで、最も「いい」とされたひとに向けて最適化されるよう、モノもコトもデザインされていく。
「いい」と「悪い」の感覚は僕たちのなかに常にあって、それは常に言語化されているものじゃあない。もしそれが「女性は悪い」「○○人は悪い」みたいな形の声明として表出すれば、それは差別といわれて非難されるだろう。では、「この求人は大卒以上の方に限り応募できます」という判断基準は非難されるべきだろうか? 「このサービスを利用するにはFacebook登録が必要です」という利用規約は差別にあたるんだろうか?
効率を高めるならば、「些末な存在」は「しょうがない」の一言で片付けておく方が効率的だし、疲労も貯まらない。販売促進とか、人材採用とか、シチュエーションはいろいろだけれど、その都度僕たちはひとを選別している。それは推奨はされないけれど、でも許された行為だ。オーセンティックなバーのマスターが、とにかく騒ぎたい若者グループに退店を命じたって、非難される所以はない。
最近ではいろいろなものにデザインという言葉が使われているように思う。キャリアデザイン、コミュニティデザインなど、挙げていけばきりがない。別にそれを嫌だとは思わないし、デザインとは何かみたいなそもそも論を唱えることにはあまり興味はないのだけれど、「なんとなくイイ感じ」とか、「なんとなくクリエイティブでカッコイイ」という非主体的で曖昧な認識に基づく行為の裏側で、意図せず排除されているひとがいるということを全く気にかけないひとがどんどん増えていって、その図式が繰り返し再生産されていくことが、僕は素直に怖いと思う。
僕はとても自分自身の考えに対して疑い深くて、物事に対して目的とか意匠を考えて、それを言語化しようとして鬱な気分になったりして、まあ一言で言えば生きづらい。だけど一方で、曖昧な肯定がひとの気持ちを追い詰めることだってあると思う。僕は自分の差別意識に対して自覚的であることで自分を少しだけ赦すことができたと思うし、少なくとも追い詰められることはないと思う。
だからこそ、他者を無自覚に傷つけないように、言葉遣いにだけは慎重でありたいと思っているけれど、これがすごく難しいというのがすごく悩ましくて、だからこそ久しぶりにブログを書いてみたというわけです。
とりあえず甘いものが食べたい。