• 是枝裕和が描く、“普通”の暴力性。判断を放棄するわたしたち

少し前に、是枝裕和監督の最新作、映画『三度目の殺人』を観に行ってきた。期待して観た作品だったけれど、それ以上に良い作品だった。内容的に社会派で堅い、意識高そうな作品のようにも見えるかもしれないがそんなことはなく、しっかりと濃厚な人間ドラマを描いている作品だと思う。母親役の斉藤由貴がリアルで不倫スキャンダルされたり、広瀬すずが演じる娘が昨年公開の映画『怒り』に続いて酷い目にあったりと、なかなかに味わい深い要素などもあったりしたが、何よりも考えさせられたのは、わたしたちにとって、“普通”とは何かという非常に普遍的なテーマを、「殺人」や「死刑」という非日常的とも見れる題材でもって表現しているところだと僕は思う。

福山雅治演じる主人公の弁護士はくたびれてはいるが優秀といった感じで、こと仕事に対しては毅然とした態度で自らの主張を述べる。「私はこう考える」「俺はこうあるべきだと思う」。そう断言できるキャラだ。しかしながら人生のあらゆる麺において自分の主体性を発揮することは出来ない。「普通こうだろ。」と何気なく発言した主人公に、広瀬すず演じる被害者の娘が問うのである。「普通って何ですか?」と、

コミュ力の高さで社会的地位が決まるようになってから、僕たちはとにかく空気を読むようになってきたと思う。それができれば、少なくともその集団の中で可もなく不可もなくいれば。「なんでお前は普通なんだ?」と詰問されることはない。普通でいることには理由はいらない。誰も否定しない。暗黙の承認がそこにある。それは法律の場でも同じなようで、いままでの判例にもとづいた判決には特別の練り上げられた理由は求められないし、納得されてしまう。では、いままでの判例に反する判決を下す場合はどうか、より一層の判断力を求められないだろうか。より一層練り上げられた、皆を納得させるだけのスペシャルな理由が求められないだろうか。そうだとすれば、たとえそれが人命を左右する判決であろうとも、“普通”な判断をするほうが遥かに楽だといえるのではないだろうか。

被害者の娘は、足が悪いという設定が付加されている。その設定が物語にさしたる影響を与えることはないが、その“普通じゃなさ”は映像を通してより一層際立ったイメージを与える。彼女は主人公に、「普通って何ですか?」と問う。そして、すべてが予定調和に、判例に基づき、いままさに、“普通”に進められようとしている裁判において、皆が本当のことを言わない法廷という場で、彼女は、自分だけは本当のことを言いたいと願う。“普通じゃなく”ありたいと願う。その人物像は、ある種革命的なイメージすら抱くことが出来る。

だが、それは果たして“正しい”ことであるとは限らない。主人公である弁護士は、依頼人である被告人に都合の良い発言、少しでも罪が軽くなる発言をするように諭す。それは一見、“正しくない”ことのように思えるが、この映画では、被告人が果たして犯人なのかそうでないのかは明らかにされていない。あるいは、犯行の動機、被告人の生い立ちなどについても、それが決して幸福なものではなかったと匂わせるのみで、明らかに確からしいものは提示されていない。だとすれば、主人公の行いは、“正しくない”とは断言できない。また、被害者の娘が法廷で真実(またこれも定かではないが)を述べることが殺人犯を利することになるのであれば、それを、“正しい”ことと断言することも難しい。

だとすれば、僕たちは一体どうすればいいのか。少なくとも僕たちにできることは、自分の意志で判断することだけなのではないか。そして、時その判断は間違っていなかったかと悩み、無意味さを嘆き、時に後悔することなのではないか。それははっきり言って楽しい行為ではないだろうが、その判断を放棄することが、いつのまにか人殺しの間接的な幇助をしてしまうことも、また事実なのだろうと思う。

自分で判断するということは、とても怖いことだと思う。だから“普通”でありたいと思うこと感情そのものは理解できなくはない。“普通”でいれば最低限、自分個人が傷つくことはない。それでも考えなければいけないのは、“普通”であることが誰かを苦しめ、時に命を奪うかもしれないということが事実として起きているからだろうと思う。それは例えば、子どもの貧困かも知れない。障害者差別かも知れない。外国人排斥運動かもしれない。企業のパワハラかもしれない。虐待や、いじめかもしれない。自分がそれに賛成でなくとも、“普通”に身を委ねることでいつのまにか肯定されてしまうことがある。

そんなことを考えていたら、いつのまにか衆議院が解散していて、僕たちはまたうんざりするような決断を迫られる局面に差し掛かっている。良くわからない大義と、良くわからないスローガンを並べられて、政治に望みを持てないというのは、もしかしたら、“普通”かもしれない。正直、投票行為よりも期待をすることが一番億劫だ。けれど、その“普通”に身を委ねることが何を肯定してしまうのか、それがとても恐ろしいと感じてしまうのである。

ちなみに衆議院選挙の際には、最高裁裁判官の国民審査も同時に行われる。自分個人としては殆ど興味はなかったのだが、『三度目の殺人』を観てしまったからには真面目に調べた上で☓印を付けに行ってみようかと思う。できればどこかのメディアがいい感じにまとめてくれるとすごく有難いんだけどなあ。やれやれ。