2016年7月16日 公開
学生時代、特に就職活動の時分には、「自分が本当にやりたいこと」なんていう言葉は幻想で、その時その時で興味関心があるモノがあるだけだと考えていて、それは今でも間違ってはいないと思っているけれど、でも20代も後半にさしかかってくると、自分の興味関心の偏りみたいなものがうすぼんやりと見えてきて、それは今までの約四半世紀で偶然に遭遇した出来事の総体としての結果論ともいえるんだけれども、ただ「自分が本当にやりたいこと」というのはそれらの文脈に如何に文学的解釈を加えるかで見えてくる所もあるんじゃないかと考えていたりする所もあるので、今回はそういったことについて文章化してみる。
いままで途上国や被災地でドキュメンタリーを撮ったり、上映イベントを企画したり、インタビュー記事を書いたり、それ以外でも映像を始めとした色々な作品を見せたり見たりしてきて、一方で、最近は「障害者と健常者」や「コミュニティづくり」みたいなもの、また、webや映像に関するクリエイティブあれこれに関心があったりするんだけれども、あらためて今現在の自分の興味関心、それから今まで制作した作品を思い返してみると、そこに通底する「意味の解らないモノ」に如何に向きあうかというテーマが見えてきた。
「意味の解らないモノ」というといまいちイメージがつかないかもしれないので、ここではひとまず例として「当事者」と言い換えてみる。僕の制作したドキュメンタリーの場合だと、「被災者」と「非被災者」の関係。或いは「バングラデシュの人々」と「日本の若者」の関係を描いた作品がある。この場合、「被災者」や「バングラデシュの人々」は「当事者」であって、「非被災者」や「日本の若者」は「非当事者」な訳だ。監督である僕、或いは多くの作品視聴者は「非当事者」なので、僕も「非当事者」の目線から作品を制作した。そして僕が作品の中で重要視していたのは「非当事者」が「当事者」に向き合うときのプロセス、例えば、どんな試行錯誤や葛藤があるかといったところだった。この手のドキュメンタリーの場合「当事者の声」を重要視しがちな部分があると思うので、先に述べたポイントは、僕の作品の一つの作風なのかなとも思っている。極端に言えば「非当事者」が「当事者」の気持ちを解るのは無理っていう解釈だってあるし、個人的には、「非当事者」が「当事者」の気持ちを必ずしも解る必要はないんじゃないかと考えている所があって、それは諦めろとか、当事者には干渉してくれるなとかそういうことじゃなく、むしろ「解ろうとすること」そのものが重要で解るか解らないかはオマケ的なものなんじゃないかということであって、そのプロセスにこそ『味わい深さ』があるのではないかということだ。
これはドキュメンタリーとか、そういう社会的なものに限ったものではない。例えば、現代美術なんかはその類いの面白さのあるメディアなのではないかと考えている。と、いうのも現代美術の作品とかいうものは、僕のような愚民にとっては殆ど「意味の解らないモノ」が物質化したようなもんだからだ。しかしだからといって「意味の解らないモノ」=「面白くない」という訳ではないと思う。むしろ意味不明であるからこそ、様々な邪推が楽しめる訳である。「この石の塊は実はアメリカの現代社会の闇を示しているんじゃなかろうか云々〜…。」みたいなアホみたいな理論をネタに会話を楽しむとか、そういうことができる訳である。だって基本意味解らないんだからどう解釈しようが恥でもなんでもない。「意味の解らないモノ」は基本的にこちらに理解を促すサービスに乏しいだけであって、理解しようとすれば如何様にも理解できる。だからこそ「意味の解らないモノ」にはそこはかとないワクワク間があると僕は思っている。
ちょうどこの前、平田オリザの演劇を初めて観に行って、終演後の質疑応答コーナーの際にも、この「良く判らなさ。」について触れていたことが印象定だった。登場人物のキャラクターづくりとして、「悪い人かもしれないけれど、違うかもしれない。」「障害者かもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。」みたいなビミョーな登場人物が出てきて、結局たいして説明も無いまま終わるのだけれども、その人物がいるからこそ「あいつは一体何なんだ?」と考えさせられる訳で、その思考のプロセスこそが『面白さ』があるんじゃないかと思っている。
確かに「彼がこうなってしまった原因は○○だ。」みたいに因果関係を明示してくれた方が、フに落ちるし安心する。その方が、気持ちよさという点ではサービスが行き届いていると言ってしまっていいのだろう。ソリューションの提供というやつだ。でも、それって『面白さ』というより『機能美』に近いものがあるんじゃないだろうか。映画とかアニメとか、確かに刹那的な気持ちよさもあっていいけれど、あんまりサービス慣れしてしまうと、自ら未開の地に足を踏み入れること、「意味の解らないモノ」と対峙することをとっさに回避するようになってしまいそうで、少し怖い。
僕自身、軽度であれ障害のあるひととして生きて来た中で、フツーのやつの気持ちなんてわからんと思ってきた節もあって、でもきっとそれは少し損をしていたんだろうなと思う。ネットで特定の人と気軽に繋がれるようになって、興味のある情報にだけピンポイントでアクセスできる今だから、話の通じないヤツと関わる必要性なんて無いのかもしれないけれど、僕は割とアドベンチャーが好きだし、勝手の解った作業をこなす感じで生きるのは著しくモチベーションが低下するので、これからも「意味の解らないモノ」と対峙する気概と体力は持ち続けたいなと思う。