2016年2月18日 公開
私が未だ高校生の頃、美大予備校で色々学んでいた時代の話。もうどんなことを学んでいたのか毛程も覚えていないけれども、ひとつだけ非常に印象に残っている事がある。それは小論文の授業で、お題は忘れたが、たしか自分は「現実で見たことのある風景がテレビに出てくると現実感を感じる。」みたいなことを書いた記憶がある。当時は18歳の自分、特に深い意味があった訳でも論理的根拠があった訳でもなく、何となくそんな文章を書いていた訳で、結局、講師の人に「テレビの方が虚構だし、逆じゃない?」みたいに指摘をされて、自分も、「ああ、確かに。」みたいに納得したので、当時はそれほど疑問には思わなかった。けれども、時間を経るにしたがって、それは果たして自分の勘違いだったのだろうかという疑問を抱くようになった。それは所謂、「リアル」や「リアリティ」というものが、映画を始めとしたフィクション、虚構の中になぜ求められることがあるのかという問いにも繋がる部分であると思う。
話は変わるが、今年の正月に、高校時代から10年の付き合いになる友人と飲んだ際、「明日から仕事とか辛いわー。」と話していた。実際、自分も友人も、望んだ職場で、それなりに配慮の行き届いた(少なくとも奴隷労働ではない)職場で仕事をしているので、それなりに恵まれている方だろうと思う。それでもなお仕事に行きたくないのは、「現実味が無い」からだという話題になった。そうだ、はっきり言って、仕事には大なり小なり非現実的な部分がある。少なくとも自分が仕事をしてきた中ではそうであった。自分はクライアントワーク中心の仕事が殆どであったこともあり、自分の提供したサービス(制作物)が、エンドユーザーにどう届いたのか、彼らの人生にどんな影響を及ぼしたのかは、極端に言えば知る由もない。もちろん顧客の満足があれば多少なりとも意味はあったのだろうが、それはとどのつまり金銭・貨幣の対価としての意味であり、その支払いですら電子情報でやりとりされるのだから現実味もへったくれもあったもんじゃないというのは、別に大したひねくれ者の戯言では無いと個人的には思っている。そんなバーチャルな遣り取りの中で、やれ「常識」だの「思いやり」だの「生産性」だの「合理的」だの「最適化」だの、輪をかけてバーチャルな話をされるのだから、もはやそこに現実味などあったものではない。頑張ってパワーポイントを使って見える化した所で、もうほとんどゲームの操作画面感覚でしか物事を考える余地はない。こんなバーチャルな世界観の中で生きていて、気持ちばっかり消耗していくというのは、もうほとんど当然なのではないだろうか?と自分は思ったりする。
仮定の話として、例えば自分のつくったコメを使った飯を、自分の手で料理してその場で人に食べてもらって「美味い!」と言ってもらえれば、確かにそこには現実味が存在しているようにも思える。昨今、地方での生活や移住がブームとなっているのもそんな側面があるのかも知れないと、最近になって考えている。自然や風土は、その厳しさや理不尽さを含めて、確実にリアルだ。しかしながら、今の時代の、この国の若者は、そういったリアルな世界には縁遠いのかもしれない。産業・職業構造に占める第3次産業人口は4138万人。割合にして67.3%。(※総務省統計局 2015年の国勢調査に基づく数値)更に、大量生産大量消費の産業構造の中では、先に述べたような現実味あるコミュニケーションはほぼほぼ難しいものになってしまっているのかもしれない。ハンバーガーを食べたとき、あなたはアメリカの酪農家のことも、オーストラリアの小麦農家のことも、中国のレタス農家のことも、それを売るインド人の店員のこともいちいち気に留めることは無いだろうし、向こうにとってもあなたはあなたではなくいち消費者なのだから、当然のことだ。
東京に育った私にとっては、ある意味それはごくごく普通の光景であり、当然のように受け入れてきた現代的価値観だった。けれど、時折、そんな非現実味にどうしても耐えられなくなる事があった。例えば、16、17歳の40名あまりの男女が、一様に黒板に向かっている光景。彼らは少しでも良い大学に入り、良い会社に入り、良い人を見つけて普通に幸福な家庭を築くかもしれない。郊外に買った家の30年ローンが完済するころには、子供が新たな家庭を築き、自分は退職金で悠々自適な生活をするかもしれない。でも一体そのプロットの中の、どこに自分というキャラクターが存在するのかはっきり言って全くイメージが出来ない。自分にだって辛いことや苦しいこともある。締め付けるような不安や焦り、行き場の無い怒りや悲しみは、このプロットの中には不必要な要素かもしれない。でも、少なくとも自分はそんなバーチャルな妄想に身を委ねられるほど器用な人間ではなかった。だからこそ、自分には映画が“必要”だったのだろうと、今になって思う。
例えば、「リリイシュシュのすべて 」における締め付けるような恐怖や暴力衝動。「ジョゼと虎と魚たち」における戸惑いや失望。それらの映画は、確実に作られた物語なんだけれども、でもそこには「リアリティ」があった。少なくとも、「思いやりを持て」だの「夢を持って生きろ」みたいな、主体者のいない価値観より、よほど自分のリアルに近い、現実味のあるなにかだ。それらの映画を観た時の衝撃は、自分がこの現実に確かに生きているということを、自分が普通ではない、合理的でない、極めて無意味な感情や情念をもった生き物であることを肯定してくれる。私にとっての映画というのもは、このバーチャルな世界の拠り所のような存在だったのかもしれない。だとするのならば、映画や、音楽や、小説や演劇は、時に、私たちとリアルとを繋ぐ命綱のようなものとも言えるのではないだろうか。
幸いなことに、私は、結論も取り留めも無い話や、唐突に闇の深い話や、内容がスッカスカの話に付き合ってくれる友人に恵まれている。今、この時点ではどうしても映画が無ければ生きていけないという訳でもない。けれども、そんな時間がいつまで続くのかも解ったものではない。それは誰にだって言えることだと、私は思っている。願わくば、映画を始めとした表現物が、いつか私やあなたが追いつめられた時に、その命を救うものであったらいいと、私は思う。