2015年7月7日 公開
もう20代も後半の年齢にさしかかると、いろいろな生き方をしている人間がいるのだなという事を再認識させられる。有名大企業でばりばり働くひと、企業やNPOを立ち上げて精力的に活動するひと、生活を切り詰めて創作活動に打ち込むひと、コンビニのバイトでなんとか食いつないるひと、何年か前は「学生」というひとくくりでぼんやりとポジショニングされていたものが、望む望まないに関わらず離散していくような感覚は、面白さとかすかな寂しさを伴っている。
学生の頃から、自分にしか出来ない事やオリジナリティとかいうあまり興味はなかった。ポピュラーなものに反発してもそれはポピュラーありきのアンチにしかならないし、なにより、自分はそんな特別な人間じゃないと分かっていた。ただ、自分のやりたい事くらいは、はっきりと言葉にしないといけないとぼんやり考えていた。でも、それは思ったよりも遥かに難しい事だった。好きな作家。好きな映画監督、好きな作品。好きな作風。尊敬する人物や、興味のある分野など、挙げていけばいくつでも出てくるけれど、それが自分のやりたい事かというとまた違う気がした。結局、「好き」というのは、プロセスではなく結果だ。自分がなんでその作品を好きになったのか、それを知らなければ、靄(もや)の中にある自分らしさのようなものをつかみ取る事は出来ない。その事に気づいたのは、ごくごく最近の事。
これは僕の偏見だけれども、自分にとって本当に大切な決断は、アタマ(理性)ではなくて、カラダ(知覚)が判断を下しているように思っている。僕にとっては、震災後に被災地に行こうと思えた事がその一例になっている。うまく言葉では表現できないけれど、「ヤバい」ってカラダが思ったんだと、僕は思っている。実際に行動を起こしてみると、なかなか沢山の苦しみがあった。映画を作って公開してみるまでは無我夢中だったけれども、改めて上映会等で、「なぜこういう事をしようと思ったのか。」「本当にその目的を達成できているのか。」という問いを投げかけられるたび、また、それに答えようとするたびに、それが自分の本心なのか。他者の言葉や、一般論を盾にしていないかという疑問が頭の中にふくれあがった。
僕たちは往々にして、自分の意志で言葉を発していても、本音を言葉にしている訳ではない。人間の行動は、多分思っているよりオートマチックなんじゃないかと、僕は思う。それは、他者や、社会から価値観を植え付けられているという部分もあるけれど、なにより、自分の本音を言葉にするというプロセスが本当に困難だからなんじゃないかと、僕は思う。イデオロギーは頑張ってアタマを回転させればわかるかもしれないけれども、カラダの事はそうはいかない。だからこそ、若者は自分探しという名目で世界一周したりするんじゃないかと思う。多種多様なの文化や言葉、人間、歴史、風土。それらに触れた時、自分のカラダはどんな反応を示すのか。その行為は、ある意味サンプリングのようなものかもしれない。得られる結果が多い方が、分析もはかどるというものである。
僕の場合は、震災を機にいろいろなところへ行き、声を聴き、考える機会を頂く事が出来た。その事は、自分の事を知る為の多くの身体感覚というサンプルを得る事が出来た。まだまだ十分とは言えないけれど、でも自分のやりたい事も、ぼんやりと見えてきているきがする。それは、ここで言えるほどシンプルなものじゃないので割愛するけれど、幾度かのサンプリングによって浮き彫りになった価値観は、思った以上に自分のカラダ(知覚)に委ねられたものであったと、いま感じている。9.11テロ。ゆとり教育の転換。相次ぐいじめ自殺。福知山線事故。東日本大震災。オリンピックやW杯。はたまた、身近な人の死や、あるいは結婚等。個人的な事でもいい。僕たちは不意に揺さぶられて、理解するしないに関わらず、その記憶を身体に宿しているんじゃないだろうか、ただ、それを表現する言葉を見つけるのがすごく難しくて、アタマが認識できていないだけなんじゃないだろうか。アタマとカラダは、思ったよりも連携がうまくない。
僕の視点から見てみると、けっこう多くの人が、自分の身体を完全にコントロールしようとし過ぎている。あるいは、身体を完全にコントロールしていると思い込んでいるように思える。自分の持つ障害の事を改めて考えると、尚更その想いは強くなる。出来ない事を無理してやろうとするのは、やっぱりあほらしい。精神論でどうにかなるほど、身体は操作性に優れてはいないのだ。僕も以前はそうだったが、自分の目指す姿に自分のすべてを近づけようとする事。簡単にいえば、成長するという事だって、アタマで思い描いたようにはうまくはいかない。外的要因もあるけれど、心理的な事を言うならば、それは多分、アタマとカラダがしっかりと意思疎通できていないという状態なんだと思う。ジレンマで押しつぶされるくらいなら、自分のカラダのご機嫌をとりつつ、うまい具合に合意形成をしていくのが、多分健康的な自己との向き合い方なんだとうと僕は思う。供物はビールかラーメンか。はたまたフラペチーノか。そこは好み次第。
別に他人がどういう生き方をしようと構わないけれど、僕はやっぱり、そういう身体感覚に鋭敏なひとの言葉が大好きだし、イデオロギーや、一般論をスピーカーのように垂れ流すひとはあんまり好きじゃない。その人個人のアイデンティティーの優劣じゃなくて、言葉遣いの話なんだけど、うーん、やっぱり難しいな。でも、少なくとも、自分の腹に落ちた言葉を喋ってくれるひとの方が、登場人物としては魅力的だよね。まあ、自分まだまだカラダの声に耳を傾け始めたばかりなので、これからも末永くうまく付き合っていきたいと思います。なにせ自分の人生の主人公は自分自身。主人公が魅力的じゃない物語はつまらないものです。