2015年1月21日 公開
ふと、いま自分のプレイヤーに入っている楽曲がどれくらいあるのか気になって、確かめてみると、約2400曲だった。特に驚きもしない。そんなものか、と言う感じだ。
そのうち日常的に聞いているのは、おそらく50~60曲くらいだろう。最近では、Galileo Galileiとか、フジファブリックとか、Syrup16g、たまにやエレクトロニカの曲を適当に流し聴きしている、と言った感じだ。
あたりまえだけど、年頃や、季節や、天気によって、自分にフィットする音楽は多様に変遷していくもので、スピッツや、チャットモンチー、amazarashi、山下達郎なんかを狂ったように聴いていた時期もある。
Mr.Childrenをよく聴いていたのは大体、20歳から24歳位までの間だったと思う。始めに伝えておきたいのは、僕は別にMr.Childrenやその楽曲が嫌いな訳ではないし、曲も素敵だと思う。ただ、時を経るにしたがって、Mr.Childrenの曲を聴くのが「つらい。」と感じるようになっていった。
僕はネガティブ思考が心地いいと感じる人間なので、テレビタレントの歌う、無責任に前向きなポップソングははなから聴くつもりが無いのだけれども、Mr.Childrenはそういうのとは、当然ながら全く中身と言うか、種類の違うものだと捉えている。釈然としない疑念のもややいらだちが沸いた時、それを振り払うパワーのある曲だと、僕はいまでも思っている。
懸念を抱き始めたのは、たぶん大学を卒業するかしないかくらいの時期であったはずだ。自分がMr.Childrenを聴きたくなると、その後何かよくないことが起こるようになっていった。これはオカルト的な話ではなくて、わかりやすく言うなら、Mr.Childrenに自分がフィットしているときの自分は、ハイになっていたのだろうと、僕は思っている。
些細な事にイライラしたり、物事に集中しすぎて周りが見えなくなっていたり、そう言う状態になると、如何せん、何かトラブルを抱え込むものである。そんなものだから、気分が醒めるととたんに、息苦しさで何も考えられなくなってしまうのだ。
繰り返すが、僕はMr.Childrenが嫌いと言う訳ではないのだ。僕が年を取ったと言う事なのか、あるいは、もっとトラウマ的な、神経症的な何かなのか。もしくは、価値観の変遷か、それはわからない。ただ、いつからかMr.Childrenの曲を聴くたびに、どっと疲れるようになってしまった。
人なんて何もしなくても変わっていくものなんだろうし、いちいち音楽の好き嫌いで一喜一憂しているのは阿呆らしいというのは事実なのだけれども、やっぱり自分という人間の、とても曖昧な、言葉に言い表せない生命力的なものは、自分でもその有り様を認知するのは難しいことなのだと思う。
ある瞬間ヘビーローテーションしていたアーティストの曲に、次の瞬間にはまったく興味を失っていたり、はたまた、いままでほとんど聴いていなかった曲に突然はまり出したり。感情は豪流のように自分自身を翻弄して、正直、それについていくのがやっとという憂鬱な気分になることもあるけれど、でも自分の感じていることくらい、自分が知っていてやらないと、なんというか可哀想だと僕は思う。
だからせめて、いろいろな音楽を聴いて、ワードローブを増やしてやる事が、自分自身の感情の在り処を明確にしてやる一つの手段なのではないだろうか。いままで聴いた事も無い、アーティストの曲が、僕自身が明確に出来ない感情の、一つの受け皿を作ってくれるかもし知れない。打算的なものではなく、もっと徒然な、生命力のリズムに身を委ねてみるのも、一つの自分探しなのかもしれない。
2015.01.21 吉本 涼