• 境界線の狭間を生きて

僕はいわゆるクリエイティブといった領域で主に活動している。
これは美大に通っていたときから感じていた事なのだが、どうやらこの領域には、自分は特別な何か持っているとか、自分には他人には無い才能があるはずだとか、普通と同じではいたくないとか、そういった事を考えている人が多いようである。
 
はっきり言って、僕はこういう考えが全く理解できない。
 
今回は思い立って、この事について書こうと思った。
 

 
物心ついたときから、僕は、普通の人生を送る為に全力で努力をして来た。
 
僕は、視覚障害を持ってこの世に生を受けた。
自分が他人と違うと言う事は、小学校で別室で授業を受けるうちに、自然と気がついていった。
幸いな事は、僕の障害がそこまで重くはなく、普通の授業にも問題なくついていけると言う事であった。
ちゃんと真面目に勉強をすれば、テストでは普通に良い点数をとる事が出来た。
 
中学時代。僕はいじめられた。
理不尽ではあったが、理由はごく明確なものであった。
幸いな事は、僕へのいじめがそこまで程度の酷いものではなかったことだ。
僕は勉強をした。勉強をしてテストで普通にいい点を取りさえすれば、いじめをするようなクソみたいな奴らより普通に良い評価を教師から得られるからだ。
普通に良い人生を送って、こういうクソみたいな連中とは金輪際関わりを持たずに生きていきたいと僕は思った。
その為に、中学の3年間は、一度も休まず、一度も遅刻せず、一度も早退せずに通い通した。
一度だけカウンセラーに相談しに行った事もあったように記憶しているが、そのカウンセラーは退勤間近に僕が相談に来た事にとても苛立っていたので、結果的に何も話さずに5分程度で帰路についたと思う。
僕は勉強をした。テストで普通にいい点を取れば、どんなクソみたいな大人でも僕を評価せざるを得なくなるからだ。実際、僕の成績は普通に良いものであったと記憶している。
 
高校時代。僕はけっこう良い高校へ進んだ。
高校は、正直僕が決めたものという印象は無い。芸術系の高校を探していたような気もするけれど、そういうのは普通ではないらしいので、なんとなく地元の何となく良い高校に進んだ。まあ、たいていの高校生なんてそんなもんだろう。
僕は勉強した。テストで普通にいい点を取れば、クソみたいな同窓生やクソみたいな大人だって、僕が普通にテストでいい点を取れば普通に評価せざるを得ない。
 

だが、そこが僕の限界だった。

 
授業についていけなくなった。
クラスメイトが1時間で終わらせるであろう宿題を、3時間、4時間経っても終わらせる事が出来なかった。
それに加えて、各教科の予習復習を科せられているのだからたまったものではない。
それでも僕は頑張った、毎晩、深夜2時、3時、4時まで掛かって宿題と予習副手を終わらせた。朝は6時半には起きて学校に行った。
それもこれも、テストで普通にいい点を取り、クソみたいな同窓生やクソみたいな大人に、普通に僕を評価させる為だった。
だがそんな生活を4ヶ月程続けたところで、限界はやって来た。
 
僕は、テストが解けなかった。
勉強についていけなかったというのもあるが、それ以上に衝撃的だったのは、そもそも時間内に回答欄の半分も埋められないという事だった。
僕は読み書きが、健常者よりも少しだけ時間がかかった。
深夜4時半。数学の問題集を泣きながら解いているとき、僕は思った。

 
終わったな。
 

僕は自分が価値のない人間である事を思い知らされた。いや、確信せざるを得なくなったというのが正確かもしれない。経済的合理性の上では、自分のような人間は不利であり、ウサギとカメで言うところのカメであり、他人からすればある種の“地雷”であり、厄介な存在である事から目をそらすことが出来なくなったのだ。
 
そこから8ヶ月あまりの記憶は正直ほとんどない。
1年次の文化祭などもあったはずだが、全くもって思い出せない。
もうどうでも良かった。自分の人生とかどうでも良かった。死んでも良いと思った。死にたいとも思った。スーパーファミコンのリセットボタンを押すくらいの感覚で人生を終わらせられるなら、多分、僕はもうこの世にはいなかったのだろう。だけど、実際にそういった事をする気力はもう残っていなかった。未練や悔いが山ほどある人間が死ぬには、山ほどの勇気がいるのだなとその時知った。
 
毎日亡霊のように起き、亡霊のようにバスに乗り込み、亡霊のように授業を受け、亡霊にように帰路についた。知らないうちに僕は2年生になり、知らないうちにクラスメイトの顔ぶれは変わって、知らないうちに授業のレベルも上がっていた。
 

そんなふうに死んだように生きていた、ある朝。
僕は衝撃的なシーンをテレビで目撃した。
 
テレビは、ある電車の路線を上空から映していて、そこを走っているはずの電車は、線路脇のマンションに突っ込み、原形をとどめない程にグシャグシャになっていた。
 
僕はそのシーンに釘付けになった。
おそらく沢山の人が命を落としたであろう事は、容易に想像できた。
そして、良い知れぬ罪悪感を覚えた。
あそこで死んだ人々は、おそらく未来に希望を持って生きていた人たちだろう。
運命というものがあるならば、何故この、生きていても死んでいても同じような人間ではなく、そんな人間を殺すのだろうか。
あの人たちが生きるはずであった明日を、僕はどんなふうに生きれば良いのだろう。
 

僕にはどうする事も出来なかった。何をしたら良いのか解らなかった。
ただ、毎日を無為に過ごす事は、だめだ。と思った。
 
部活に入る事にした。
僕は美術部員になった。
別に美術をやろうとは考えていなかったけれど、小学生の時勉強以外で評価されたのは美術くらいのものだったので、他よりはましだろうと思った。
美術部は退屈だった。何か課題が与えられるわけでもなかった。別に部室に寄らずに帰っても何も言われないけれど、それでも他の部活にいそしむ生徒や自習室で勉強をしている生徒を尻目に帰宅するよりは、目的も無く部室にいる方がいくらか気がまぎれた。
放課後の1時間と少し、僕は気怠い格好で窓辺に腰掛け、四角い木片の角を削り続けていた。別に意味も目的も無い。ただ、何となくそうしていただけだ。
 
いつしか、木片が綺麗な球体に近づく頃。僕は美術部の女の子たちと話をするようになった。(男子部員はほとんどいなかった。)
授業中は寝ていたけど、美術部に行って、木を削って、たまにCDを貸し借りしたりとか、お菓子を分けあったりとかそういう事が、ゆるく、僕の日常には増えていった。合宿で大島に行って蟻にたかられたり、何だか良くわからないオブジェを作ってみたりもした。クラスのガチ勢との熱意の差を感じつつも、公園で合唱練習をやったり、文化祭の演劇をやったりした。別に取り立てて楽しかった訳ではないけれど、別にそれでもいいかと僕は思った。
 

ただ、それでも進路選択のときは来る。
もう「普通の人生」というフォーマットでは評価されないだろう。
僕は、僕の強く望んだ「普通の人生」という第一希望の人生を、諦めた。
 
だから、ここからは、僕の第二希望の人生の話。
 

大学時代。僕は美術大学へ進んだ。
高校の教師からは、もとよりあまり期待されていなかったのか、何も文句を言われる事は無かった。
美大で目にするものは、何もかも新鮮で、かつ不気味であった。
表現の世界は、数字では評価され得ない。そこ事が一種の安堵感と、一種の不安と焦燥感を生み出しているように思えた。
誰もが確固たる評価軸を持ってはいない。だからこそ皆が、他者との線引きをしたがった。
 
僕は…。正直なところ、そう言うところには興味は無かった。
元より評価されないだろうという諦めがあったからなのかもしれない。
僕には、そういう価値観の曖昧な、経済的合理性から隔離されたような空間が与えてくれる安堵感に、少しだけ酔っていたのかもしれない。
 
表現というフォーマットが、僕を評価してくれるかは、未だ解らない。
自分なりのチャレンジは、してみたつもりだ。
映画監督をやってみたり。
いきなり発展途上国に取材に行ってみたり。
被災地にボランティアに行ってみたり。
ドキュメンタリーを作ってみたり。
 
その過程で、取り返しのつかない失敗も、何度もした。
やっぱ自分は駄目だと思った。
高校1年の、終わったなと思ったあの時。さっくり死んでおけば良かったと思う事も、とてつもなく沢山あった。
いまでもこう思う事は、日常的にある。
 

今後の事は、正直どうなるのか、良く解らない。
 
僕は特別でもない。普通でもない。他人を信用できないかもしれない。
それでも誰かが生きたかった明日を生きているのだろう。
 
そうだとすれば、僕はこの、第二希望の人生を、どう生きれば良いのだろうか。
 
答えは未だ出ていない。

 

2014.11.30